細密画に伴う2つの心境から意外な類似点の発見
細密画とは対象物を細部まで緻密に描くこと。
私もよく人物画を細密に描く練習をしていました。
今でもその練習のスタンスは変わりません。
ではその練習がいかに私にとって大事なことなのかをご説明いたします。
安易な表現から逃げないために
先日、簡略化できないお話をしましたが、時間や量を重視するとどうしても安易な表現になりがちです。もちろん読み手をその表現で説得できるならそれで充分なんですが、私の脳内は納得しません。
そこにはこういった私自身の2つ心境が働いているのでは?と思ったのです。
見ることから表現に至るまでのボトムアップ
何より観察力と表現力の底上げに他ならないと思っています。
これが出来ずにトップダウンの表現は「薄っぺらなもの」と認知しているからです。
「裏付けの無い安易な表現の作品」を見る人に納得させる力は伴わないと若い頃から培ってしまったんでしょうね。正直考え方としては古いです。
もはやこの情報化の時代にこの真面目さは害毒以外の何物でもないです。
ただの自己満足でしょう。
作品を観る人に無駄な思考を強要しない。
写実的に描かれた絵はそれだけで説得力があります。
しかし日本ではそれほど評価されません、「写真みたいですね」「すごいですね」これで終了です。
結果「カメラでええやん」となる。
しかし海外ではどうも評価の角度が異なるようです。
それは瞑想などに近いフロー状態を体現し現れた結果、細密画になった。
「称賛される作品」として対象となり得ると捉えられる場合があります。
そこで私はこういう共通点を見つけました。
「この細密画に類似点をもつ行為の中に写経があるのでは?」と思ったわけです。
キーワードは「無心」無の境地になることにより神羅万象を書きとめた経文を写す行為は脳をフロー状態に切り替え、身体的な疲れを超越し、ただひたすら写し続ける。
それはもう細密描写の脳の状態と同じと感じました。
まあ私は写経をやったことはないんですけどね、この記事を書いている途中で調べてみると「細密字写経画」というのがあるそうです。
さあめくるめく「細密な世界」に触れてみませんか?