やっぱりアクリル絵の具が性に合ってしまっている話
アクリル絵の具の表現力は無限大
と言っても過言ではない。
特に速乾性と汎用性のアドバンテージは計り知れない。
油絵的表現(あくまでも的ですが)はもちろんのこと、様々な表現に対応できるところが気に入っているところでしょうか。
その辺の利点については他のユーザーさんやメーカーの説明におまかせして。
私はこう使っています。
最初は油絵の具と違い、塗る前と乾燥時の色の変化に違和感を覚えましたが、すぐに慣れて複数の油を用意せずとも水だけで描けるメリットは大きかった。
そして持ち前の速乾性から立体表現にも使える、骨材さえしっかりしていれば彫刻もできるんですね。
これはもう「ミクストメディアの入り口に半分片足つっこんだな」と…
ただし保管場所に困ることは過去の記事をご覧いただくとして。
その「様々な表現ができる」と確信した頃にはもうコンピューターグラフィックが定着してきていて、「彫刻のコンセプトはパソコンで」「実物の作品は外注に発注」というフローがメジャーな作家さんにはいらしたようでして。
立体構成や彫刻の作品を自分の作業時間ではとてもではないけれども数量ができない、そう諦めていました。
その問題をアクリル絵の具はほぼ解決したのは言い過ぎではないでしょう。
そうあの若い頃には…
今ではPCの中にコンセプトのみが溜まっているわけですが。
細密画に伴う2つの心境から意外な類似点の発見
細密画とは対象物を細部まで緻密に描くこと。
私もよく人物画を細密に描く練習をしていました。
今でもその練習のスタンスは変わりません。
ではその練習がいかに私にとって大事なことなのかをご説明いたします。
安易な表現から逃げないために
先日、簡略化できないお話をしましたが、時間や量を重視するとどうしても安易な表現になりがちです。もちろん読み手をその表現で説得できるならそれで充分なんですが、私の脳内は納得しません。
そこにはこういった私自身の2つ心境が働いているのでは?と思ったのです。
見ることから表現に至るまでのボトムアップ
何より観察力と表現力の底上げに他ならないと思っています。
これが出来ずにトップダウンの表現は「薄っぺらなもの」と認知しているからです。
「裏付けの無い安易な表現の作品」を見る人に納得させる力は伴わないと若い頃から培ってしまったんでしょうね。正直考え方としては古いです。
もはやこの情報化の時代にこの真面目さは害毒以外の何物でもないです。
ただの自己満足でしょう。
作品を観る人に無駄な思考を強要しない。
写実的に描かれた絵はそれだけで説得力があります。
しかし日本ではそれほど評価されません、「写真みたいですね」「すごいですね」これで終了です。
結果「カメラでええやん」となる。
しかし海外ではどうも評価の角度が異なるようです。
それは瞑想などに近いフロー状態を体現し現れた結果、細密画になった。
「称賛される作品」として対象となり得ると捉えられる場合があります。
そこで私はこういう共通点を見つけました。
「この細密画に類似点をもつ行為の中に写経があるのでは?」と思ったわけです。
キーワードは「無心」無の境地になることにより神羅万象を書きとめた経文を写す行為は脳をフロー状態に切り替え、身体的な疲れを超越し、ただひたすら写し続ける。
それはもう細密描写の脳の状態と同じと感じました。
まあ私は写経をやったことはないんですけどね、この記事を書いている途中で調べてみると「細密字写経画」というのがあるそうです。
さあめくるめく「細密な世界」に触れてみませんか?
絵が描けるのにマンガが描けない
私はマンガが描けません。
もし小さい頃から描けたらクラスの人気者、将来の夢は漫画家を目指していたかもしれません。
しかし、それは私の特性上、到底無理なはなしでした。
私は簡略化ができない。
そう見たものを詳細に表現することは比較的抵抗なくできるのですが、簡略化し尚且つストーリーのあるマンガが描けません。
学生の頃は同級生がマンガをいとも簡単に描いてましたが、ただ単純に凄いなと思うわけです。
なんとも「私には到底できないな」と思ったのであります。
きっかけはイラストの公募
卒業した頃でしょうか、私は気まぐれでイラストの公募にエントリーしました。
別に漫画のように簡略化したわけではありません、私は自分のイメージを忠実に再現しただけでした。
その作品が佳作かなんかだったと思いますが、認められた気分になって喜んだ思い出があります。
おっさんの気づき
それでも日常的にイラストを描くわけでもなく、もくもくと油絵を描いておりました。
その当時は気づきませんでしたが、今の年になってイラストや漫画を描くと…
できるんですね、まだたどたどしいですがあの難攻不落の「簡略化」ができてるんです。
若い頃は頭に柔軟性がなかったのでしょう、今は肩の力が抜けて気軽に家族の似顔絵でマンガが描けるようになりました。
でもこれもまだまだ慣れが必要でしょう、本気でイラストや漫画を描いてらっしゃる方に失礼な話です。
いつかは絵本やイラストで色んなことが伝えられるような表現者になっていきたいです。
作品の保管の方法とスペースは意外と大変な話
油絵やアクリル画を主に制作していた時の話
私は油絵をはじめてからアクリルに転向し活動を休止するまでに、真剣に保管をどうしようか悩み続けていました。
まずスペースの問題、温度の問題、湿度の問題。
この条件が揃った場所など用意する術もなく、私は保管を実家に頼んだり、自宅の湿気の多い部屋に保管していました。
なぜこんなに場所を取るのか?
キャンバスは厚みがあり、一枚でなかなかのボリューム、しかも100号となると畳一畳分のスペースを占めるのです。
「ゆくゆくは売れるかもしれない、いや必ず売れる」
そう信じて保管していたのですが。
結果は売れず在庫の山、そう売れなければただの場所を取るモノなのです。
作者本人からすれば思いのこもった作品達。
それは家族からすれば疎ましい存在。
それに輪をかけてインスタレーション(空間表現)までしたもんだから、
場所がいくらあっても足りない。
そこで私は考えました、場所を取らない最適な答えを見つけ出したのです。
それは水彩画、それとパソコンです。
水彩画は薄い紙、厚みがないので場所を取りません。
パソコンもデータなので機材さえ揃えば場所を取りません。
ゆくゆくはインスタレーションをやりたいですが、
本作品に移る前のコンセプトの蓄積には最適なのです。
これからはこう言った活動をするつもりで今、作っています。
人生そのものがギャンブルになったアホな話
私は、ギャンブルが嫌いです。
やりません。かと言ってギャンブルを否定するつもりはありません。
ただ冷や冷やするのが嫌で心臓に悪いからです。
しかも基本ケチなので…
若い頃、売れたい一心で活動していました。
でもダメでした、芽吹きませんでした。
種は「若いころの時間」、リターンは「悲しい現実を思い知る」
でした。
実際、世間からは負け組なんですよね、自分の人生そのものを賭けて…
ギャンブルにしてしまったと言っても過言ではないと思います。
今ほど情報もない時代にがむしゃらに活動しなければチャンスはあったかもしれないと思ったんですが。
今、過去の作品を見ても「魅力がないな」と思うわけです。
勝つはずのない勝負に当然のように負けたんですね。
「絶対に勝つという保証はないですが絶対に負ける要素はあるんだな」とこの年になって気付きました。
今さらだけど若さってこわい。
アートとデザインの違いと向き不向き
今まで勘違いしてました。
「アートとデザインの違い」については、それぞれのご意見や辞書を調べていただくとして。
私はデザインの仕事をしていたことがあります。
しかし長続きはしませんでした。それは何故か?
利益を確実に出す。(赤字を出さない)
生産上無理がない。
何より顧客の満足を最大限にすること。
私はこのプレッシャーに耐えられずデザインの仕事から距離を置きました。
今「アートを再びやろう」と思い立ったのは、
利益に確実につなげる必要がない。失敗してもいい。
生産上無理があっても制作ができる。
顧客の満足を最大限にする必要がない。
結局デザインから逃げたんですね、
生業にしていけるであろう可能性から逃げたのです。
ではアートのデメリットは?
それはもう「食べていけない。」
その一言につきます。
ただこれからのアートも変革の時期かもしれません。
それはまた後日。
この瞬間があるからこそ楽しい
制作の途中に瞬間的に「作業」から「瞑想」に切り替わるときがある
その時は疲れや時間の関係なくいつまでも続けられる感覚に陥る。
ただ楽しい時間はいつまでも続くわけではなく、
制作も行き詰ったりもする、そういう時は休憩が大事。
おいしい時間は限られている。